20160229

心の妙なる美

「もののけ姫」のシシ神さまは生死を司る。乙事主が命を吸い取られるシーンは美しい。

休日に友人と谷根千へ行った。初めての谷根千散策、東京で坂道を見るのはあまりないことだったかもしれない、それだけ新鮮な印象を受けた。谷中銀座の雑貨屋でジブリ映画に出てきそうな形の燈籠を見た。千駄木をいつの間にか過ぎて、散策の最後は根津神社へ。お詣りの作法を気にかけて、どうこう聞いてくる友人は可愛らしい。ぼくも確信がないので、心を込めようと言った。おみくじを引けば、小吉と出た。谷根千を越えて上野に着くと、その頃には曇り空が広がって寒さも強まっていた為、鼻水はぴょろぴょろ、手はかちこちとぎこちなく足は思わず速くなった。久方ぶりに喫茶「みはし」へ入ると、暖かい緑茶が身に染みわたる。五月に食べた葛餅も、食べられなかった冬用メニューの粟ぜんざいも食べることができた。

ところで、神社の鳥居を通る際には真ん中ではなく端を歩くべしという。ぼくはこれを聞いて美しいと思った。神社に赴く或る若僧が鳥居を通ってみよ。すると彼はひょっとした合間に悟るのである。「中央は神さまのお通りなさる道じゃ、いかんいかん。」そういって端を歩く若僧の心には、小さな芽を育てる太陽が見える。不逞の念や善意を悟ることに、微妙な美しさを感じる
それをいけないことだと思う米粒のような心の発露は、まるで闇雲を抜けようとする光さながらである。それをいけないことだと思いながらやはり不倫をおかすような人間だけでなく、赤信号の際でも横断歩道を渡る人間がいる。もし彼の心にこれは違反だという心が少なからず生じているならば、或いはたとえ言葉で表さずとも、なにか違和を感じているならば、まずはそれでいいのである。生じる心の美しさ、というものがあるだろう。それは日常茶飯事であるが、実際はいつも気にするようなことは誰もしない。煩わしいほど繊細で粗野な感情も、それを分解すると新鮮な感情を見出すことができるが、しかしその新鮮な感情は以前からあったはずのものであるから、それを心の芽という。従って、生じる心の芽は美しい。しかし誰もが何処かで心の芽をひとつ、太陽から隠したことがあるに違いない。未だそこが砂漠でなければ、今こそ神社の鳥居を通ってみよ。幾百年前に沈んだ宝物船を発見するように、誰もが生じる心に気付くだろう。

20160222

暖和の日

五人のいつかの同期と居酒屋で飲む。
凡そ二年ぶりの再会だった。多くの談笑は虚しさを募らせるが、時には癒しにもなるだろうか。

話題は現況と将来、恋愛と結婚、帰宅か夜更かしかの三つくらいで、同じような論争を繰り返して、あっという間に終電の時間となった。都合上ぼくだけ帰り、他の四人は街に残った。誰もが眠そうだったが、それでも皆んなが帰るかどうか悩む前には既に一人ずつ終電の時間を過ごしていったという具合で、しかしぼくだけ帰ったその後も、彼らは楽しく夜を更かしたに違いない。
論争といっても五人のうちのとある二人の意見のぶつけ合いで、映画「雪の轍」を思い起こす。多少は映画という形式によるものであろうが、それが洗練された攻撃的対話であったならば、この日の対話は若さもあって未熟なものであった。いずれにしても解決の兆しなどなかったが、いずれもそのおかげで場が盛り上がったわけであるから、映画館においても居酒屋においても、終わりの見えない論争は決して無駄でないと分かる。

社交の場においては誰もが上っ面で語るが、それは向かい側や両隣の人々に対する各々の関係が考慮されるからであって、そうでなければ「彼ら」に聞かせることは出来ず、いつでもぼくは彼ないし彼女に語るであろう。ところで男女合同の飲み会などで誰もが経験するような友人の意地悪がある。例えば自分自身について嘯かれると嫌な思いをするし、人の熱心になる話題を下手な洒落で逸らすのを見ると興醒めする。しかし、ぼくはそれもまた上っ面だと思うことにしよう。それというのは、彼らのうちの誰にしても一旦二人だけの対話になれば、まるで人が変わったように他人思いの素振りをするからである。しかし近所の関係が考慮されるようなうわべの会話にこそ、まさしくその関係が示されるはずである。その為、恋人と友人を交えた談話において誰もがその恋人の為にいつも以上に緊張するだろうし、幾分小賢しい人間ならば、恋人の為に友人を阿呆に仕立てさえする。
上っ面にも程度がある。会話が愉快なだけであれば疲労のもとになる。幼稚な会話は、出来る限り避けたいもの。本当ならば、ひと時でも刺激的な議論の出来るような社交が良い。
今回は、ただ充分に楽しい再会であった。

20160218

混乱した頭脳

神保町へ行って、友人とウィンナーコーヒーを飲んだ。歩いて秋葉原へ向かい、そこのプラモデルの専門店へ入った。懐かしい匂いの予感があった。鋭利な形の戦闘機は格好が良い。直観的には男は丈夫で鋭いものがお好き、萎びた棘は男性的ではない。格好良い飛行機は無条件で操縦したいと思うが、それは操縦する快感よりも機体それ自体の飛行する姿が魅力的だからである。恐らく、自動車やバイクなども同じであって、渋滞している自動車を見るだけでは些かの感動もないが、車の走ること風の如く、時には美しい曲線を描く走行を見れば、なるほど格好良いと思う。形は鋭いよりも曲線の美しさを持っているが、しかし格好良い自動車は道を切り開く、道だけでなく時にはモーゼさながら海を切り開き、街の空気を切り裂くものである。そんな自動車ならば、ぼくも運転したいと思う。

友人は自分自身のことを格好悪い男だと思っている。不安や悩み事を余計に抱えている、そしてそれを上手く解消できないひねくれた、内なる自分が嫌だという。頭脳の渋滞というべき心の問題が彼をいっそう悩ませる。ぼくが口に出すことは粗雑な思念を拭い捨てるべきだという、要するに考え過ぎだという以上のことではない。恐らく、彼の周りにはそれをいう人間が多く存在するのである。ぼくが会話の中で感じたのは、彼が求めているものは決して優しく包むような助言でなく、理知的で賢明なのでもなく、彼が持っているものを全て破壊してやるほどの思い切った出来事なのである。圧し潰されるほどの負担を感じている人間はしばしば唯一発の清算的破壊を求めるもの。しかしそのような事は都合良く起きるわけでもない、たとえ無関係な他者にしても遠慮したくなるものである。すると、彼は今まで通り悩むであろう。彼には十二分に悩み続けてもらい、長年の虫歯が抜けて心の健康が戻るときのように、彼がいつの日か抜け道を切り開くとぼくは思っている。悩み抜けば、悩みの本体と思しきが自ずとその姿を現すものであるから。

20160215

音楽

ぼくが子どもの頃はピアノがリビングにある為、母親の弾くバッハの平均律を嫌でも聴いていたが、それはいつまでも不愉快であった。小学生になると水泳と球技を始めたのもあって音楽から最も離れたように思われる。ところがそれも束の間で、高学年になると洋楽の存在を知った。それから今に至るまでは縦横無尽に駆け巡ったといってよい。

ところで、子どもになにを望むか、というのは教育的な問題であるが、子どもに高尚な音楽を聴いてほしいと思う場合、やはりぼくのように嫌々でも聴かせるべきであって、というのも、たとえ子どもがそれに耐えられなくなって別の、いわゆる俗な音楽にのめり込んだとしても、遂には周りにまわって数十年経たとしても、元の高尚な音楽に戻ってくるのである。そしてやはりその高貴さ故に、まるで家宝を見つけたと言わんばかりの深遠な感動が、もはやこれ以上他の多様な音楽に振りまわされることもないと安心させる。それは上京した人間が都市の嵐に疲弊したあと、故郷に戻って穏やかな時間を味わうのに似ている。つまりは結局、ぼくの場合、その根本としてあるのは、やはりバッハの音楽であると分かった。

しかしまた昨年から、ぼくは交響曲の魅力にとりつかれたのだった。それと同時に楽曲と指揮者ないし演奏者との関係が、ぼくにとって重要となった。これらの発見はとても嬉しいことであって、それは以前なら交響曲といえば聴くことが全くできなかったからである。
最近、よく聴いているのはショスタコーヴィチの交響曲第七番「レニングラード」で、この楽曲についてはまたどこかで話さなければならないが、さらにぼくはフェドセーエフの指揮でなければならないといえるようになったのである。ここまで至れば現代的で都会風な趣味である。実際、これを偉大な曲だと感じる為に、指揮者が誰であるかはその楽曲に比べればそれほど関係がないのであって、指揮者はきっかけとなってくれるだけである。そうした瑣細な意味で、現代的なのである。

歩んで来た道を思い出すように辿ると、これから、どのような音楽を聴くのだろうかと思う。いつのぼくでも、幾つかの音楽を指して、もうここが終着点で、つまりは落ち着いたのだと思ったものだが、その都度また、新しい音楽に出会う。しかし今や、その出会う様子といえば恋多き人間のように振り回されることは決してなく、まるで伴侶から紹介されるように、いつでも安心しているのである。


20160214

風夜行

言葉なき詩が風を吹かす
原初の夜の國産みに
流れし手紙 小揺れし春
人むらなく
静かな夜半の琵琶の音と
震える葉っぱの心根を
霞み眼もて重ね見る
風夜行 人生を過ぎ行き
何ものも残さず
灯火は消える
人は眠る

20160213

文を司る

なぜ小説家は孤独なのか。

わざと在り来たりな疑問文にしてみたが、分かりやすく言えば、なぜ小説家は分業制を導入しないのか、ということである。一人だけで構成、背景考証、そして文章作成、様々をやろうというのは職人さながらであるが、時代遅れの様もある。出版ともなれば編集の介入も加わるに違いないが、実際の仕組みは分からない。小説の物語構成担当などという人は未だ聞いたことがない。古典や昔噺から素材を採集するなどの方法は変わらず有効ではあるし、一人で充分ということかもしれない。
ぼくは物語を考えるのが苦手なのだが、例えば悲劇で、人を亡き者にするということ、それ以上の直接的な言葉を使うのすら憚れるといった具合なのである。一方で、喜劇はより上手くできるかもしれないが、シナリオにおいて頓智が冴えているなど、あっと驚くような物語を考えうると思うことはほとんどない。物語に比べて、ぼくは文体については拘りがある方なのである。それだから、どちらかというと詩の方が、それも叙事詩ではなく抒情詩が、また抽象的な事柄を対象とした詩の方が向いていると思うことがある。ただ最も肌に合う役は恐らく監督であって、つまり総合する役目こそが自分に合うのでないかと、密かに思っている。
そういうわけで、もし小説の脚本を与えてくれる人がいるならば、そしてぼくになにか創作の役目を許してくれる人がいるならば、文壇の、そして芸術運動の一つとして、互いに力を合わせて、何か作品を産んでみたいと思うのである。またその時は、できれば三人以上で、五人くらいが丁度良いと思う。ところで、ぼくはあまり人がいると亀のように篭りがちになり、一人のときの居心地良さを充分に知っている人間なので、また他の人も恐らく同じであろうから、先きのような企てが思い通りには決していかないだろうと容易に想像できる。それでも、そんなぼくでさえやはり、あれが良いだのこれが良いだの、こうすべきだのああだこうだ言い合って、長い時間話し合ってみたいと思うのである。そして、そこから作品が生まれたならば、それはきっと、素晴らしい作品に違いない。

Simple

"Simple is best." という。
単純であることは難しい、と言えるような事柄は多い。また、簡単であるものはいつでも簡単でなければならない。なぜなら簡単であることが難しいならば、それは矛盾だからである。

サッカーでも先きのような言葉が聞かれる。シンプルな攻撃、というと分かり易い。ボールを繋いでゴールまで持っていけばよいのであるが、しかし実際には極めて難しいことである。簡単にパスを繋げろと指示するが、簡単なパスではゴールまで至り得ない。簡単なパスは安全性、ないし確実性に基づいている。一方で、真にシンプルな攻撃は、常にゴールへの道筋という評価基準を持っていなければならない。後者は目標が単純に明確であるため、その筋道を予想して、また恐らく数手の手段からより良い選択を判断するよう、選手に要求する。前者は目標がとても曖昧な為、客観的に見えるものは選手から他の選手に渡るボールの動線だけでしかない。退屈な試合の殆どは前者のスタイルから生じる。U-23サッカー日本代表の試合が面白かったのは、偶然にもカウンターという攻撃スタイルになっていたからでもある。カウンターはゴールへの筋道を辿り易い、いわば攻撃の初等形式である(決して初心者の為のものという意味ではない)。
総じてサッカー日本代表のアジア予選が退屈なのは、そしてやはり何処とやっても退屈なのは問題である。先ず、目標が曖昧な為、従ってゴールへの筋道が曖昧な為、良い判断が出来ない、無論、試合をしている以上、そしてトリッキーなプレイで魅せたいというよりも試合に勝ちたいと思っているならば、少なからずゴールへの意識はあるものだが、それでもゴールへの企図なくしてはやはりボールを支持したいという安全性へ向かわざるを得ない。足下の、或る程度の高度な技術を選手たちが恐らく持っているとして、それでも誰が相手でも難しそうにプレーするのは見るに堪えないものである。日本人の昔馴染みの性格とを結びつけただけの積極性の欠如という指摘が長々と残っているが、その指摘に長年圧され続け、行き当たりばったりで無理したのか、選手が頼りないシュートを打つのを見るというのも味気ない。味方のボランチがボールを受けたとき、どのように動くべきかを考えていた、と本田圭祐との対談で中田英寿が言っていた。また彼は、練習の時は誇らしい技術を示す選手たちが試合になるとよくない、と言って本田圭祐もそれに頷くように応えていた。実際、いまの選手が何を考えているかは知らないが、仮にも技術力を謳われている選手たちが試合ではその力を証明できないとすれば、まさに彼らはその「使い方を知らない」と言える。なぜなら彼らは、そもそも自分で判断が出来ないからである。

20160212

死別

息を引き取った
自然のその手は優しかった
受け取った言葉を もう
噛みしめることはない
受け継がれた息遣いを遠くに見
望むなき土製の夜の 音取かな

20160208

社会性

君たちは本当に、子どもさながらの好奇心とご褒美欲しさで、何処からでも問題を抱えてくる!








対位

時の摩擦が
唇の向こうに運命を 映しだす