20160215

音楽

ぼくが子どもの頃はピアノがリビングにある為、母親の弾くバッハの平均律を嫌でも聴いていたが、それはいつまでも不愉快であった。小学生になると水泳と球技を始めたのもあって音楽から最も離れたように思われる。ところがそれも束の間で、高学年になると洋楽の存在を知った。それから今に至るまでは縦横無尽に駆け巡ったといってよい。

ところで、子どもになにを望むか、というのは教育的な問題であるが、子どもに高尚な音楽を聴いてほしいと思う場合、やはりぼくのように嫌々でも聴かせるべきであって、というのも、たとえ子どもがそれに耐えられなくなって別の、いわゆる俗な音楽にのめり込んだとしても、遂には周りにまわって数十年経たとしても、元の高尚な音楽に戻ってくるのである。そしてやはりその高貴さ故に、まるで家宝を見つけたと言わんばかりの深遠な感動が、もはやこれ以上他の多様な音楽に振りまわされることもないと安心させる。それは上京した人間が都市の嵐に疲弊したあと、故郷に戻って穏やかな時間を味わうのに似ている。つまりは結局、ぼくの場合、その根本としてあるのは、やはりバッハの音楽であると分かった。

しかしまた昨年から、ぼくは交響曲の魅力にとりつかれたのだった。それと同時に楽曲と指揮者ないし演奏者との関係が、ぼくにとって重要となった。これらの発見はとても嬉しいことであって、それは以前なら交響曲といえば聴くことが全くできなかったからである。
最近、よく聴いているのはショスタコーヴィチの交響曲第七番「レニングラード」で、この楽曲についてはまたどこかで話さなければならないが、さらにぼくはフェドセーエフの指揮でなければならないといえるようになったのである。ここまで至れば現代的で都会風な趣味である。実際、これを偉大な曲だと感じる為に、指揮者が誰であるかはその楽曲に比べればそれほど関係がないのであって、指揮者はきっかけとなってくれるだけである。そうした瑣細な意味で、現代的なのである。

歩んで来た道を思い出すように辿ると、これから、どのような音楽を聴くのだろうかと思う。いつのぼくでも、幾つかの音楽を指して、もうここが終着点で、つまりは落ち着いたのだと思ったものだが、その都度また、新しい音楽に出会う。しかし今や、その出会う様子といえば恋多き人間のように振り回されることは決してなく、まるで伴侶から紹介されるように、いつでも安心しているのである。


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