20160627

六月のおわり

青空の下の奥山が納戸色の素肌を見せ、目の前を広がる花緑青の山々が自然の色気を醸している、そんな風景を私はかつて見たものです。田園を走る電車の中で、ある一瞬間、すぐに通り過ぎるのを知っていながらも、目をそれから離すことのできなかった家の姿を、私は淋しい心地で記憶しました。街路に咲く紫陽花の横で、小学生たちが傘をさして下校している様子を、車の窓から眺めたこともありました。風の心地良く吹く雨の夜に、部屋の中で澄んだ雨音を聞き、正体の分からぬ美しい女性の肌に触れたこともありました。だけど、それは夜の跫となって遠ざかるのでした。雨音が平均して聞こえるのに、それはますます遠く聞こえるのです。そして今、私は電灯の熱が冷める音を聞きながら、深く眠ろうとしています。


必死の情熱も、時計が九時から十時を指すほどに、あっけなく散っていく。詩人は詩人である限り、真理を語ることはできないのです。それが私たちの合言葉で、目を閉じて、それからそっと、心の扉を閉ざす。自信のない人間に、信念などあり得ません。自信だけの人間に確信などあり得ません。鍵穴からのぞく自然が美しい、心が痛むほど堪らなく美しいのに、私にそれは余計なのです。私は眠らなければなりません。そしてその前に、この感触を確かめておきたかったのです。この上なく幸せでしょう、宵の水面を波がきらきらと羽ばたいて、月がようやく姿をあらわし、自分の脈動に気づくほどに、時はゆっくりと歩むようです。

Doppelgänger

言葉と言葉のぶつけ合いでもない
心と心の慰め合いでもない
たとえ人間の脆さが己れの骨まで溶かそうともよい
たとえ人間の弱さが己れを聾啞に仕上げるともよい
異なる二人の人間こそが
この私たちならば
真理を確かめ合うことができる
それだけでは
不充分か?

20160623

動力

車が無言で走り去っていく。窓越しのベルトコンベアは不思議と静かに働いている。此処で私は赤い車を手に取って唇に付け、毒味をしたあと食道へ放るように落とす。そのあいだも次々と車は走り去っていく。テーブルの上の珈琲の薫りが私にひと息の余裕を与える。喫茶店の天井を見上げ、それからノートを開いて、私は決してベルトコンベアの奥向かう果てを想像しなかった。そうしないように気をつけた。ノートくらいの大きさの赤い味で満足しなければならなかった。そのくらいがちょうどよかった。あんまり過ぎると、それは不味いといって、いずれにせよさかしまの形で戻ってくる。それは、いただけないのだ。

20160621

葬式行進曲

左方の毛沓 右方の毛沓が
阿吽の呼吸で月夜を歩き
途方去る喧噪が遺した
生気を吸い尽くす
待ち侘びた風が肌を滑り
帳が開けられ
万代に照るという月も
闇の片隅に捌けてしまう
去なば猿とて寂しがり
息は呑まれ
口腔で悶える舌も
いつしか動かなくなる

ついに来た 運命が 
身形は共に知らずとも
手触りがそのまま夜に溶け込む
雪原の如き
さやけき光
死装束が包む
己が心
風は止み
帳は垂れて
有明へとかわる夜を
板木のように沓音がたちもとほる

天と叫び

暑苦しい世の中にあって、その圧迫感から、人は真実よりも嘘を吐きたがる。なるほど、この世は拷問に満ちている。そうだ、この手枷足枷が私の影をこれほどいびつにしている。ああ、雨の音も雷の轟も、我が部屋の中では天蓋の星と共にある。雨に打たれて、紅色の口づけを味わったグラスが溢れるまでワインをまるであらゆる転機が訪れたと祝わんばかりに注がれている。後々知ることだがそれはシャトー・マルゴーという名の葡萄酒である。もはや大人びた若者たちはまるで犬が匂いを嗅ぐように這い蹲って零れる赤ワインを吸うように飲んでいる。誰かに教えてもらったのだろうか。雨音が強くなり、暗がりの部屋を雷光が時折驚かせ、仰天の星はかつてないほど美しい。細やかな光と影があり、それで私は犬を、蝶々を、そして鳥を描いた。飛べ、飛べ、飛べ。雷雨の真ん中を飛べば、誰もがお前に畏れ入る。ああ、しかしなんと可愛らしい小鳥よ、私の腕に抱かれて、ともに寝床でおやすみするか、お前の翼は私の手のなかにあり、もうこわがることはない。さあ、寝なさい。私はお前が眠っている間に、あらゆる書物を閉じてこよう。こんな夜中になんという労苦が待っていることか、それでも為さねばなりませんから、私は向かうのです。空っぽの瓶はMaregauxという文字を雨雲へ向けて横たわっている。まるで革命の最中に息絶えてしまった者のように。若者たちは雨降る街中をまるで流れ弾を避けるように走っていく。対向の人間と案の定ぶつかってしまった人々は自分の足の傷口に何度も口づけをした。啄木鳥が樹から餌を捕るように、それはとても速かった。街の通りの行き止まりで二人の男女に出逢った。私には唐突に思えたが、女が男の顔にお面を被せると彼女は男の頬を引っ叩いた。お面は飛んでいき男の頬は赤めいていた。二人は幾度かそれを続けたが、お面がついに壊れてしまった為に二人はそのまま睨み合い、時の問題と思ったか表情が和らぐと、堪らず男女は抱き合った。微笑ましい君たちよ、ファンファーレが欲しいなら、あの天に。序曲が教えてくれるのは、時の顚末、運命の轍を通る風の優しさ、もう、知ってしまったからには、抗いようのない陽の眩しさ。ああ、二人は行ってしまわれた。お面を拾ったお爺さんが裏面に女性を描いている。初恋の女性だと言って彼は涙を流している。ところで皆さん、赤児の思い出、かの無力によっては、誰もが不可能を知らないもの、それだけ目は輝く。一方で人々は自分の無力を嘆くが、そのくせ形而上はお好きでないときた。いったいそれなら、自分の無力はなんだというのです。果てなく延びる影の脚を追いかけて、その手で何をつかもうというのです。無力を知るというのは、いつから臆病者の常套句になったのか。この人を見よ、気まぐれ運命があの通り、雨雲と共に消えていく。小鳥よ、その足はいつから、立つことができたのだろう!

20160619

unforgettable

一つの思い出が終わった。かつての勤め先でお世話になった方が退職されたという。すこぶるショックである。彼女の歳は僕と同じくらいだというが、上司という立場から醸しだされるべき、あらゆる要素を持った最強の女性であった。僕は彼女が大好きだった。そして仕事場の野郎どもは皆、そう、我々は皆、彼女が大好きだった。それは人としてそうなのであるが、彼女の魅力は、人間達が幸いにも持ち得たあらゆる多様性の中で、最強に輝く個性である。いつも彼女は鋭い目つきで我々を性別に関係なく睨みつけ、そして全く村雨の如き切れ味で、更に我々の人間としての尊厳は保たれたままに、全く熱を含まぬ冷酷な言葉を刻み込む。人間の暖かみのある血が、傷口から流れていくのが分かる。彼女は鉄仮面の身姿で我々の前に現れるが、それはアイアンメイデンも敵わぬほどの尋常でない冷たさを持ちながら、それでいて美しいのだ。街中ですれ違えば、軒並みの男をして可愛いと言わせしめる、実際は本当に可愛いらしい色白の女性なのである。しかし彼女の武器が眩く輝いて、息吐くまもなく人の心を万里一条の鉄剣が貫けば、その心はもはや全てを夜風に晒さなければならない。我々は彼女を目の前にいつでもそれを欲した。それだけの価値があった。賤しい人間たちである、人間の奴隷的性格である。我々は彼女の日常生活を想像してみたが、それは不可能だった。愚かな人間である。彼女について玉ねぎを食べられないということしか分からない、彼女は極めて不思議で謎の算なき女性である。彼女が仕事場から離れたら、僕はもはや何も想像する手立てがないではないのか。彼女も人間でまだ若い、何も変わったことなんてなく、それはそれは平凡に生活しているのではないか、普通ならそう思っていいはずであるのに、それすらも拒否する魅力というのは、彼女以外に誰が持っているだろうか。僕はすぐ真似たがる人間だから、やはりあの鉄仮面を被りたいと思うのだが、そんなこと、出来やしない。あの人はこれからどのように生活するのだろうか、と思うもの、きっと、殆ど分かりもしないから、悩むこともない。こんな場所に、こんな時に、これほどの素敵な女性がいた、それだけで僕には充分な経験である。皆、どういう風に生きていくのだろう、そういう疑問は、必要なのだろうか。

20160618

鳴々

蝶の巡りし照月に 水面遠けき人の世は 仮宿の如し 暗かりし 
おとけし言葉のつむらえに 螢灯りていよし明るくなりにけり

20160616

書くことについて

ひたすら書き続ける人間だっているだろうし、書き続けなければ生きるのもままならない人間もいる。書きながら、書きながら昂奮しては何も書けなくなることもある。心の漲る文章に触れて、書かずにはいられぬこともある。一字一句、何かにぶつかりながら書くときも、言葉が言葉を呼ぶようなときも、ときおり、もはやこれ以上のものを書くことはできないとか、もうこれで書くことに対しておさらばしようと思う。半端な気分は一昨日来いといって、またまた書いてみる。すると昨日書いたものが蛙の鳴き声のような下手くそな文章に思えてくる。これからもこんなことが続いていくだろうと思うが、昨日までは絶対的な文章だったものが、いまや相対的なものに変わるということはとても興味深いことであって、それは昨日はふとしたきっかけで喧嘩をしたが、夜寝て朝を迎える頃にはとっくにそんな感情はお暇して、ただ不条理な痕跡だけが私と隣で眠っている人間との間に残っているという、それに似ている。凡そ感動というものは過ぎゆくものであり、自己満足は一つの指標に過ぎない。それは、私が満たされているということは明らかであるが、他のことは全く明らかではないからである。かといって自己満足に対する巷の評価は馬鹿げていて、それはあらゆる満足は自己のそれを前提するからである。ところで、私の声も時偶にそうかもしれず、誰でもそうだというもので、凡そ感動とは離れていて、そのくせ心を動かすものがあるが、そういったものはいつ読んでも、良いと思う。書くことについて、私は大体いつも満足しているが、それは秀れた才能を全く意味しないし、満足することが何も目的ではない。あなたが書けば、私も書く。そういう、ルールなのです。

海の声

海辺に居たのは私だったか、貴方だったか、満ち溢れた若さだったか、それとも物語りに欠かせない聞き手だったか。波にさらわれ、雨に打たれ、流木と共に巡った人生潜り抜けて、それは水だと説いた、万物の原理は氷の溶けた海の底にあると信じた。豊海の夢の触れる時が、一日の終わり。人世の夢路の旅の下準備、胃袋に蓄えたのを頼りに歩む、綺想な竜宮への道。読むにも分からぬ文字列が気泡のように漂って、触れたら消えるシャボン玉を、海豚は絶えず飛ばしている。蟹鋏が句読点を刻む。すてきな喫茶店を蛸が教えてくれたのに、鯨の迫力がそれを忘れさせた。此処が何処か分からぬとはいえ、魚たちがどうして助け舟を出すだろう。自ら浮き出すのも困難であれば、夢現の渦巻きがぐるりとあたまを捻らせる。竜宮の道は果てしない。流れに任せた白髪は瞬く間に伸びたらしい。海の流転に拐われて、短き夜の鳴き声が疾くと響き渡る。静む夜に、時の遍く澱むれば、天海の門開かれたる、と久しく言い伝えあり。

長寿の秘訣

死の谷をめぐり、それでいて元気でいるような人間は凡そ一世紀は生きることができる。最愛の人間の死に際して、或いは身近な黒い影に生気を吸われてしまうような人間が、これ以上長く生きるというのも辛かろうから、どんな生き方にもせよ、それが誰よりも長いということはない。死別に対して私は、その都度生きる力を与えられているような気がするから、私も長寿が保証されているのかもしれない。実際は、せいぜい長寿が目に見えるというだけであって、尤もそんなことも馬鹿げている。私はもっと別の理由で簡単に死ぬことができるし、長寿の可能性とは別の理由で生きなければならない。私は長寿よりも不死を希望するが、それらは互いに全く別物である。その為、人生セミナーに通うようなことは一切せずに済む。例えば一世紀という時間が一人の人間に与えられたとしよう、そうすると彼はその時間の中で生きなければならないが、一方で私はそれから解放されている。このことは、私だけに限った話ではないから、ここで云う私というのは、リーゼのことだけだと思う必要もない。さて、すべての人間はいずれ死ぬ。ところで私は人間である。従って私はいずれ死ぬ。そのとき君は、死の谷をめぐり、それでいて元気であるように。

20160615

渓谷の憧れ

大自然の中では、人間はちっぽけに見える。だけどそれは、遠慮の為の細かさではない。半袖から露出した色白の腕に逞しさがある。それは女性よりも、美青年のそれを思わせる。片方の手で双眼鏡を用意しているが、彼女の鋭い目付きはそれを必要としなかった。目を細め、遠くの景色を伺う姿は冒険家さながらである。取り出したランタンを憩いの岩場に置いて腰を下ろす、落ち着いた一息が溶け込むように流れていく。目の前を悠々と走る川は広い。入道雲を拵え、ミモザの黄花が咲く木の下で、スカイブルーのワンピースを着て恋人に微笑んだ、そんな思い出が過ぎることもあった。記憶は焚火の灰塵に埋めて、それが芽生える時を待つ。彼女はこの渓谷から、何処へ向かうのだろう、大自然を描きながら、何を求めて歩くのだろう。

20160614

音楽 Ⅱ

だいたい何時も、クラシックを聴く。ときおり分野を跨いで音楽の谷底に落ちる。そこには、色々な楽しみがあるから。大概の音楽に触れたあとは、それほど多様性に固執せずに済む。
クラシックといえば、受け入れ難いしかめっ面で挨拶をするが、それは聴く人間の作法でしかない。この格調高い音楽は心地よい音階で誰でも受け容れるのが本当であるから、それをさながら黄金の階段だと思う必要はない。実際、ベートーヴェンの第九を師走の連日公演で聴いた友人が、それをひたすら聴き続けるほど好きになったのは、新芽に活きづく春であった。
それは、きっかけなのだと思う。大体、ぼくもふと気が付いた一小節から次第に楽曲全体が好きになることが多い、何かに気付かぬ内は至って感動すらない。それを掴み難いといって突き放すが、いつしか判ることもあるだろうと思ってそうするのだから、いつか使うといえば物を捨てられぬ人たちのように、ぼくの周りは音楽に溢れているのだろうか。

ショスタコーヴィチの交響曲第七番、レニングラードはぼくの大好きな楽曲である。ショスタコーヴィチらしい、選り取り見取りの数寄物が現代的な意味で端正に置かれてあるという具合で、なかなか飽きない。どの楽曲も素晴らしいが、一目惚れは一楽章のボレロ風の戦争の主題。この軽やかな緊張感が堪らなく快い。ひとたび盛り上がると、非常に魅惑的な太陽の如き、不思議な印象だけが残り、結末は容易に映像が見える。さらに深みにはまると、ぼくのショスタコーヴィチが現れるが、それは木管の独奏である。オーケストラにおける独奏といえば、何かとショスタコーヴィチの印象があって、彼のピアノ協奏曲はその第一印象として、とても美しい独奏を忍ばせている。このレニングラードでは第一楽章にピッコロとヴァイオリンの独奏があり、それがちょうど戦争の主題、リズミカルな太鼓の前である。さらにそのあとはファゴットがあり、これがまた神妙としている。しかしやはり聴かなければならないのは第三楽章である。なんといってもピッコロの透き通った音色が際立って美しい。するとまた連動して、微細な弦楽器が厳冬の景色を映し出す。ここぞとばかりに、まるで映画でも見ているかのように、もはや映画を超えて劇的に展開するから参ってしまう。

音楽も、その土地によって特徴的な音色というものがあるのかもしれない。ある曲を聴けば、その土地の匂いが想像されるというのはよくあることで、レニングラードを聴けば簡単にあの大いなる風土を思い起こすができる。そしてぼくは雪国の交響曲がなかなか好みらしく、それはかの大地を想像させる壮大な音楽性によるのだろうか、それとも冬景色の為の弦楽に心を震わせるからだろうか、知らない。そういう土地と音楽の関わりはおもしろい。さらにおもしろいと思うのは、誰もが知っているようなごく有名な音楽を知らないだけでなく、音楽の聴き方を知らないのに、交響曲にせよ、その中の一小節にせよ、素晴らしいと感じたところというのが、みな同じときである。そういうことを、ぼくはよく経験する。なんて素晴らしいだろうと思った旋律が、誰もが選ぶ聴きどころと聞けば、これほど不思議で嬉しいことはない。まだ聴けぬ音楽があれば、聴けば聴くほど心が空っぽになってしまうものもある。音楽は本当にすごい。

20160613

卓上のトロフィー

部屋の明かりは眠るには眩しい
家具は動くことはない
砂時計も止まっている
古典の薄明に憧れを抱く
人間は考えなければならない
悩む必要はない
趣味は無限の台上で踊ったり
それから寛いだり
迷妄を破る声があるとすれば
それはわたしの声である
言葉に対する疑念があれば
わたしの声がそれを破る

20160612

Kommunikation

いつか握手する日が来るだろう。君の手が、君の言葉が私のそれと握手する、その為に要るものは何もないと、互いになんの武器も持ちはしないと、そうして握手する。特別な感情は一切必要としない。私の手がどれだけ冷たいか、君はすぐに分かる。君の手がどれだけ温かいか、私には分かる。野性に満ち、それだけまた魅惑的な君には、和合というものが身に合わないだろうから、別に啓発の心構えなどなく、ただ灯火のもと戯れるだけで、きっと私たちは分かり合える。ところで私と君、全く別であるから、心ではなく、身体で分かり合えるというわけだ。心、それは安易に踏み入れてはならない、内なる洞窟。いつかの宴もいつかの孤独も忘れ去るような大切な手触りが、馴染みない形式と一緒に素朴な存在を知らせる。そのとき心の中では変幻自在の水の音だけが聞こえる。足音だけで雫は垂れ落ちて、いっときの緊張が結界を張ったように繊細な空間を生み出す。それは、なぜだろう。さて、誰か来た。快活が、恍惚が、情熱が、遊惰が、木洩れ日の少女が、木陰の青年が。愉楽の蓋開けて味わう酒、潤す舞台に食った魚の骨を転がそう。ついに風が野草をゆらし、照りつける光でみな明るくなる。豪華な色彩をまとい、儚き想いの見えぬままに、垣間を過ぎゆく日は微笑む。また、誰か来た。憂鬱が、静寂が、夢想が、狂気が、明徹なるまなこが、高らかに渦巻く吐息が。陰影に宿る野性が睨む己の姿、暦を結ぶ星の民が風を送る、覚束ない水面は瞑目し、その深淵で白い花が咲く。理の眼差しは動くことはない。彼方の笛の音を聴くように、その在処を確かめよう。沈静の影は海のようにあまねく広がっている。私は君を、どこか知るところへ導くことはできない。折り損ねた骨を隅々曝け出すように、私と君の互いの手によって、観念の血脈を結び、一字一句の祈りを抉り出そう。そうして果たして、私たちは語り合えるだろうか。言葉だけがそれにふさわしいと、そう思うことはもはやない。

20160611

カエル

デート デート
ケロヨンとデート♪

二人で笑う。
コーヒー、飲もうか。
飲まない。

20160609

理想

虚言ばかりのように思えて、自分が嫌になる。言葉だけで生きようとすると気が狂う。不誠実が私の嫌悪の対象であるのに、生まれ持った性質のようにまとわりついて離れない。いつでも姿を見せるそれが自分の本質であり、と私が思えば、お前の言葉はいつも虚である、と哀しみの弁証が心を諭す。偽りが下手で、そのくせ寄せ集めの小細工で隠れようとするからである。そうではない、と仏僧は悟る。世俗の中では到底生きることもままならないが、それが離世に至ればなおさらである、と老師は語る。君は充分ふつうじゃないか、と友は言った。実直でなければならない、しかし、私は自分でさえも裏切ってしまうではないか、そうしてまた周りの人々をも巻き込んでしまう、それがかなしいのではないのか、それが堪らなくつらいのではないのか。そうであっても、すべきことは何一つ変わりはしない。こういうときがある、不可視の不安の中で背負うものよりも、実直に立ち、自然に背負わなければならないものの方が断然と軽いのである。心の中ではいつのまにか、あの柔和な水を凶暴にする雨雲が頭上にかかる。生き辛さにまみれて消え失せるのがいいか、その大きさを測り知ることは誰にもできない。身体は上手く動かない。粘着質の習わしだけでない、言葉がときおり枷となってそれを阻む。偉大なる音楽家は本当に運命の扉を開いたのだろうか。そこから何が、見えたのだろうか。底抜けのまなざしで本当のことを指し示してみよ、と生きていくのに最低限必要なだけの自信で私が目指したそれは、何もない、と沈黙が説く、霧のまだ奥深くにある。

20160607

温度

身体が硬くて言葉の抑揚もない、あらゆる身体的表現は私の領域ではないと、そう思われる。笑顔の絶えない私について、どうして絶えないのかを本当に考える人間はいなかった。あれは緊張をほぐす子どもの名残に過ぎないのであって、心が動いているわけでもなく、筋肉の運動というよりはむしろその反応である、と。

私にだって感情がある。感謝があり、謝罪がある。私は誰よりも冷酷ではなかったし、冷静ではあり得なかった。私を非情な人間として見ようという意味が、何にあるだろうか。確かに、惜しむべき人間の送別に対する半ば当然のごとき反応すら、私には難しい。が、それが全てでは決してなかった。身体感覚の絶頂を無言で過ごす、それが全てというわけでは決してないように。


20160605

柳は緑、花は紅

雨上がりの早朝、入母屋造の寺の屋根の、一、二粒の雨粒が悟ったように軒から滴る。止静の鐘が鳴り渡り、身体全体に伝わる緊張が心の行方を警めた。鳥の囀りが聞こえ、砂利の踏まれる音が聞こえる。身体を定める両隣の畳縁が一本となれば、それを支えと求め、静寂の最中に有りもしない携帯電話が耳元で鳴るかもしれない、そうした不安が生じることもあった。立ち上がる頃には馴染み深い朝が空気となって舞い込んだ。雨の滴が殊更に際立っている。そういえば、風の伝わる板張り床なら、雑巾で水拭きをするのも不思議と嫌ではなかった。静かな心持ちで茶を飲めば、澱むものもない。雨のち曇の松の木の、鮮やかな緑を眺めるうちに、ありのまま、という言葉が聞こえた。ありのまま、受け容れる、いずれも同じ意味であったものが、いつの間にか、それらを二つ重ねるまでとなった。自然、それはいつでも受け容れるものであるから、即ちそれは、ありのままである。世のひとたび受け入れたものが、いつしか朽ちてゆく。そのとき生じた情念が、悲しみが、切なさが、儚さが自然をとらえ、やがて執着を生ぜしめる。受け容れることは、まるで自然の風景を描き出す巧みな技術だったろうか。面目を感受し、理性は自発の内に働くもの。自然、それは感受性の対象であり、その限りで理性は全く問題にならないはずである。柳は緑、花は紅、その言葉を美しいと感じ、庭に広がる無常の景色もまた美しいと言った私たちは、砥草の洗練された佇まいの空間で、決して漂うことはなかった。研ぎ澄まされた呼吸法の中で、自然と心がその時刻を分かち合えば、一分一秒の世界ではないある瞬間が、きっとやって来る。

香水

潮風が去年の肴を懐かしませる。鮪のかま焼きを食べ、食事以外の音がないような、静かな蕎麦屋ですだち蕎麦を食べた。夏の思い出がよみがえる。海の街に響く鴎の声に広々とした空を感じた。ビル群に妨げられた視界の向こうに海があると分かる。この街はそれほど窮屈だったろうかと私は思った。その大きさを知る人間にとっては、私は鼠のようだ。私のまだ知らない場所がたくさんある。鳥のようには、それがどれほどなのかも把握し得ない。

さて、此処は何処だろう。香しき乱れ、満員電車の人間たちが想像させるのは人むらの喜劇である。雑多な衆群はそれだけでどこか滑稽さを思わせる。歌劇「こうもり」の楽曲がよく似合っておもしろい。私も周囲を窺う者の一人だ。いまにも砂時計が選り好みのご馳走で人々を駆けっこさせようとしている中で、誰もがふと歌い出すかもしれない、そしたら皆、合わせて唱うだろうか。誰もがふと転げて見せるかもしれない、そしたら皆、途端に踊り出すだろうか。可哀想なガブリエルも、ただ一つの甘い慰めを胃の中に見つけるかもしれない。

20160602

elegante

それは優雅なひと時だった。時はゆらゆらと流れていたのに、いつの間にか時計は十時を指していた。陽が沈み、影の時針が夜の帳の中で見境を失うと、何も動くものはなく、時間もまた止まったように思える。皆んなはそれぞれの部屋に入り、辺りは寝静まった様子で私はただ一人、台所で片付けを終えたところだった。静寂がポンと肩を叩く。居間の明かりを消すと、自分の部屋のわずかに開いた扉から明かりが洩れて見える。この静けさが堪らない、それは昂ぶる心地でなければ、静澄な心地。私は安心して自室に入った。少しばかり読書を愉しむと、それから手に持っていた鉛筆を机に置いて、布団の上で横になる。暫く経って起き上がり、居間の電気を点けて椅子に腰掛け、また読書を始める気でいる。静寂がトンと肩を叩く。テーブルの上に急須があった、それから雑誌と、テレビのリモコンがある。そして、誕生日に買った本をひろげて一人で読む。夜は静かなjetéを愉しんでいる。人生を最初からやり直せるなら、自分の生き方はもっとよくなるだろう、というのは、なんだか可笑しい。思考の戯れなら、ここに幾らでも書く。良い夜には、それも好い。