雨上がりの早朝、入母屋造の寺の屋根の、一、二粒の雨粒が悟ったように軒から滴る。止静の鐘が鳴り渡り、身体全体に伝わる緊張が心の行方を警めた。鳥の囀りが聞こえ、砂利の踏まれる音が聞こえる。身体を定める両隣の畳縁が一本となれば、それを支えと求め、静寂の最中に有りもしない携帯電話が耳元で鳴るかもしれない、そうした不安が生じることもあった。立ち上がる頃には馴染み深い朝が空気となって舞い込んだ。雨の滴が殊更に際立っている。そういえば、風の伝わる板張り床なら、雑巾で水拭きをするのも不思議と嫌ではなかった。静かな心持ちで茶を飲めば、澱むものもない。雨のち曇の松の木の、鮮やかな緑を眺めるうちに、ありのまま、という言葉が聞こえた。ありのまま、受け容れる、いずれも同じ意味であったものが、いつの間にか、それらを二つ重ねるまでとなった。自然、それはいつでも受け容れるものであるから、即ちそれは、ありのままである。世のひとたび受け入れたものが、いつしか朽ちてゆく。そのとき生じた情念が、悲しみが、切なさが、儚さが自然をとらえ、やがて執着を生ぜしめる。受け容れることは、まるで自然の風景を描き出す巧みな技術だったろうか。面目を感受し、理性は自発の内に働くもの。自然、それは感受性の対象であり、その限りで理性は全く問題にならないはずである。柳は緑、花は紅、その言葉を美しいと感じ、庭に広がる無常の景色もまた美しいと言った私たちは、砥草の洗練された佇まいの空間で、決して漂うことはなかった。研ぎ澄まされた呼吸法の中で、自然と心がその時刻を分かち合えば、一分一秒の世界ではないある瞬間が、きっとやって来る。
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