20160527

水中

口から糸を惜しげに垂らした青年がいた。彼は洗面台の鏡を見てその糸に気付くや、恐る気持ちで引っ張った。思ったよりも長く、まだ長いのか、なんとも不思議に引き続けると、糸は赤く染まっていた。鏡の前の自分と目が合って、前髪を上げて額を曝す。湯船に身体を浮かばせると、彼は水の中で耳を澄ませる、何処からともなく聴こえる音が彼に束の間の安らぎを与えた。浴場の天蓋を見上げ、十分に呼吸するたびにその安らぎの映像の片割れが浮かぶ。この世を知った、その憐れみを与えられた青年は、それを理解しようと長い時間を費やした。定家葛はよく伸びて、剪定の必要があった。大人について、殊更考えることはしなかった、先ず、その必要がなかった。ー 青年はもう一度、身体を水の中へ潜らせた。ー そして、これからも。たいして重要でもない、些細なことに悩まなければならない世の中は鬱陶しい。


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