20160513

今日は

今日は悔しいこともあったが、気の合う人とめぐりあい、気が楽になった。夜に友人からの手紙を受け取り、そして良い気分できっと眠ることができる。

今は毎日、そうなのかもしれない。睡眠の沈むような重さを忘れてしまった。悔しい思いの中では、それ以上に私を解放してくれるような、そんな次の予定があり、それは数時間後に起こるだろうことを私は予感する。そして実際に私は対面した人との少しばかりの会話、投げかける的確な指摘に、ほころぶ糸のように思わず気が楽になる。これは、不思議なことである。その人のお陰で私は軽快な気分になり得たのだろうか、それともある程度、何か有意義なことを予感していた為にその用事の中で、容易に快い気分になり得たのだろうか。そして、ディナー後のデザートと言わんばかりの友人からの手紙は、今日のこの日になぜ届いたのだろう。運命という言葉はこの際、使わないことにしよう。たとえ運命だといえば、私はこう思わざるを得ない。つまり、人が懸念するよりも、運命に生きる人々はなんと自由なのだろう、と。たとえ偶然に過ぎないというのであれ、その仕組みから見れば、ますます運命を感じざるを得ない。しかし私は先きに言うように、今日を運命という言葉によって言い表わすようなことをしない。今日は本当に良い日なのだ、ただそれだけである。こんなふらつくほど柔な脚のくせに、確かな道を歩くのが実はよく似合う、より良い日々がここからよくみえる。

ところで私が帰省するとき、手紙を送るねと別れた人がいたが、私はその人の手紙を何気なく待っていた。今日届いた手紙は思わぬ友人からのもので、とても嬉しかった。そういえば先日のあなたの返事でどれだけ私は喜んだのだろう、心の溶けてしまうといえば、どれほどの喜びだろう。

なあ、ためらいなく感謝をすることができる、これほど良いこともあまりない。

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