20160222

暖和の日

五人のいつかの同期と居酒屋で飲む。
凡そ二年ぶりの再会だった。多くの談笑は虚しさを募らせるが、時には癒しにもなるだろうか。

話題は現況と将来、恋愛と結婚、帰宅か夜更かしかの三つくらいで、同じような論争を繰り返して、あっという間に終電の時間となった。都合上ぼくだけ帰り、他の四人は街に残った。誰もが眠そうだったが、それでも皆んなが帰るかどうか悩む前には既に一人ずつ終電の時間を過ごしていったという具合で、しかしぼくだけ帰ったその後も、彼らは楽しく夜を更かしたに違いない。
論争といっても五人のうちのとある二人の意見のぶつけ合いで、映画「雪の轍」を思い起こす。多少は映画という形式によるものであろうが、それが洗練された攻撃的対話であったならば、この日の対話は若さもあって未熟なものであった。いずれにしても解決の兆しなどなかったが、いずれもそのおかげで場が盛り上がったわけであるから、映画館においても居酒屋においても、終わりの見えない論争は決して無駄でないと分かる。

社交の場においては誰もが上っ面で語るが、それは向かい側や両隣の人々に対する各々の関係が考慮されるからであって、そうでなければ「彼ら」に聞かせることは出来ず、いつでもぼくは彼ないし彼女に語るであろう。ところで男女合同の飲み会などで誰もが経験するような友人の意地悪がある。例えば自分自身について嘯かれると嫌な思いをするし、人の熱心になる話題を下手な洒落で逸らすのを見ると興醒めする。しかし、ぼくはそれもまた上っ面だと思うことにしよう。それというのは、彼らのうちの誰にしても一旦二人だけの対話になれば、まるで人が変わったように他人思いの素振りをするからである。しかし近所の関係が考慮されるようなうわべの会話にこそ、まさしくその関係が示されるはずである。その為、恋人と友人を交えた談話において誰もがその恋人の為にいつも以上に緊張するだろうし、幾分小賢しい人間ならば、恋人の為に友人を阿呆に仕立てさえする。
上っ面にも程度がある。会話が愉快なだけであれば疲労のもとになる。幼稚な会話は、出来る限り避けたいもの。本当ならば、ひと時でも刺激的な議論の出来るような社交が良い。
今回は、ただ充分に楽しい再会であった。

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