同世代の人と会話をすると大抵、恋愛観で話が盛り上がる。作中のバーテンダー曰く「人間の悩みの原因は二つ、女と母親」らしい。映画を観終わって友達と喫茶店に入って話をした。
誰もが個性を持っていることを知っていても、人は「この人には個性がある」という。後者においては、自分の価値判断によってある誰かが個性的に見えたり、或いは見えなかったりする。多くの場合、その個性とは変わっているということを意味するし、友達の場合も同じように謎が多いという意味である。その意味で、個性のある人間が私を楽しませてくれるかどうかよりも、私が彼に対して楽しいかどうか、このことが重要になってくるだろう。従って、私が気分の良い日は、彼が窓を眺めているだけでも私は楽しいのである。しかし実際の問題は、彼は幸せかどうかという点にある。窓を眺めているだけで楽しいと言われるなら、気楽ではあっても彼は愉快ではない。彼らが交際しているとして、彼は結局「君のことが本当に好きかどうか分からなくなった」というだろう。
ぼくは誰もが個性を持つと思っている。かといって、誰もがおかしいというわけではない、人を褒めるのにおかしいということもあるが、この場合、誰もが個性を持つといって誰もがおかしいというわけではない(もしも誰もがおかしいのであれば、それこそおかしなことである)。まず、ぼくは誰もが個性を持つという考え方から話を始めたい。そしてこの考え方に従うと、この点では、ぼくは誰とでも交際できると思っていい。しかし恋愛とは幾らか感性的なものであって、従って結局その根拠は感性的なものに求めなければならないのである。するとぼくの場合、ぼくの好みの対象が付き合う対象になるわけである。少なくとも、嫌悪の対象は付き合う対象に極めてなり難い。もしぼくの好みでない人間と付き合わなければならない場合、ぼくはこの世の定めを嘆き悲しむ(しかしぼくにはまだ望みがある、なぜなら誰もが個性を持っており、従ってその相手は一見すると退屈に見えるが、ひょっとすると素敵なものを持っているかもしれない!)。しかしもし付き合うならば、ぼくはその相手と交際関係にある以上、そしてこれから信頼関係を築いていく以上、たとえぼくが好みを日毎に変えるような野郎でも、やはり相手を裏切るようであってはならないし、また相手もそうあるべきなのである。これがぼくの恋愛観である。かぐや姫さながらの難題求婚となると大変であるが、ぼくのような平凡な人間には「誰でもいい」という条件だけで十分なのである。もっとも「誰でもいい」という言葉は印象が悪いため、ろくに提示することはできない。他に言葉があればいいが、懐かしい名画の中の男が言うように、さしあたり相手の印象をさりげなく自分の好みにしておくのが定石である。
ちなみに『邂逅』のシャルル・ボワイエは粋な紳士であるが、ぼくの夢みる理想像である。
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