20160614

音楽 Ⅱ

だいたい何時も、クラシックを聴く。ときおり分野を跨いで音楽の谷底に落ちる。そこには、色々な楽しみがあるから。大概の音楽に触れたあとは、それほど多様性に固執せずに済む。
クラシックといえば、受け入れ難いしかめっ面で挨拶をするが、それは聴く人間の作法でしかない。この格調高い音楽は心地よい音階で誰でも受け容れるのが本当であるから、それをさながら黄金の階段だと思う必要はない。実際、ベートーヴェンの第九を師走の連日公演で聴いた友人が、それをひたすら聴き続けるほど好きになったのは、新芽に活きづく春であった。
それは、きっかけなのだと思う。大体、ぼくもふと気が付いた一小節から次第に楽曲全体が好きになることが多い、何かに気付かぬ内は至って感動すらない。それを掴み難いといって突き放すが、いつしか判ることもあるだろうと思ってそうするのだから、いつか使うといえば物を捨てられぬ人たちのように、ぼくの周りは音楽に溢れているのだろうか。

ショスタコーヴィチの交響曲第七番、レニングラードはぼくの大好きな楽曲である。ショスタコーヴィチらしい、選り取り見取りの数寄物が現代的な意味で端正に置かれてあるという具合で、なかなか飽きない。どの楽曲も素晴らしいが、一目惚れは一楽章のボレロ風の戦争の主題。この軽やかな緊張感が堪らなく快い。ひとたび盛り上がると、非常に魅惑的な太陽の如き、不思議な印象だけが残り、結末は容易に映像が見える。さらに深みにはまると、ぼくのショスタコーヴィチが現れるが、それは木管の独奏である。オーケストラにおける独奏といえば、何かとショスタコーヴィチの印象があって、彼のピアノ協奏曲はその第一印象として、とても美しい独奏を忍ばせている。このレニングラードでは第一楽章にピッコロとヴァイオリンの独奏があり、それがちょうど戦争の主題、リズミカルな太鼓の前である。さらにそのあとはファゴットがあり、これがまた神妙としている。しかしやはり聴かなければならないのは第三楽章である。なんといってもピッコロの透き通った音色が際立って美しい。するとまた連動して、微細な弦楽器が厳冬の景色を映し出す。ここぞとばかりに、まるで映画でも見ているかのように、もはや映画を超えて劇的に展開するから参ってしまう。

音楽も、その土地によって特徴的な音色というものがあるのかもしれない。ある曲を聴けば、その土地の匂いが想像されるというのはよくあることで、レニングラードを聴けば簡単にあの大いなる風土を思い起こすができる。そしてぼくは雪国の交響曲がなかなか好みらしく、それはかの大地を想像させる壮大な音楽性によるのだろうか、それとも冬景色の為の弦楽に心を震わせるからだろうか、知らない。そういう土地と音楽の関わりはおもしろい。さらにおもしろいと思うのは、誰もが知っているようなごく有名な音楽を知らないだけでなく、音楽の聴き方を知らないのに、交響曲にせよ、その中の一小節にせよ、素晴らしいと感じたところというのが、みな同じときである。そういうことを、ぼくはよく経験する。なんて素晴らしいだろうと思った旋律が、誰もが選ぶ聴きどころと聞けば、これほど不思議で嬉しいことはない。まだ聴けぬ音楽があれば、聴けば聴くほど心が空っぽになってしまうものもある。音楽は本当にすごい。

0 件のコメント: