20160213

文を司る

なぜ小説家は孤独なのか。

わざと在り来たりな疑問文にしてみたが、分かりやすく言えば、なぜ小説家は分業制を導入しないのか、ということである。一人だけで構成、背景考証、そして文章作成、様々をやろうというのは職人さながらであるが、時代遅れの様もある。出版ともなれば編集の介入も加わるに違いないが、実際の仕組みは分からない。小説の物語構成担当などという人は未だ聞いたことがない。古典や昔噺から素材を採集するなどの方法は変わらず有効ではあるし、一人で充分ということかもしれない。
ぼくは物語を考えるのが苦手なのだが、例えば悲劇で、人を亡き者にするということ、それ以上の直接的な言葉を使うのすら憚れるといった具合なのである。一方で、喜劇はより上手くできるかもしれないが、シナリオにおいて頓智が冴えているなど、あっと驚くような物語を考えうると思うことはほとんどない。物語に比べて、ぼくは文体については拘りがある方なのである。それだから、どちらかというと詩の方が、それも叙事詩ではなく抒情詩が、また抽象的な事柄を対象とした詩の方が向いていると思うことがある。ただ最も肌に合う役は恐らく監督であって、つまり総合する役目こそが自分に合うのでないかと、密かに思っている。
そういうわけで、もし小説の脚本を与えてくれる人がいるならば、そしてぼくになにか創作の役目を許してくれる人がいるならば、文壇の、そして芸術運動の一つとして、互いに力を合わせて、何か作品を産んでみたいと思うのである。またその時は、できれば三人以上で、五人くらいが丁度良いと思う。ところで、ぼくはあまり人がいると亀のように篭りがちになり、一人のときの居心地良さを充分に知っている人間なので、また他の人も恐らく同じであろうから、先きのような企てが思い通りには決していかないだろうと容易に想像できる。それでも、そんなぼくでさえやはり、あれが良いだのこれが良いだの、こうすべきだのああだこうだ言い合って、長い時間話し合ってみたいと思うのである。そして、そこから作品が生まれたならば、それはきっと、素晴らしい作品に違いない。

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